あとのまつり by  野生会議99 

終ってしまったイベント、集まり、企みのご報告ですよー。

「ヤドカリ人の抵抗とアマミキヨの出現」喜山荘一(第5回『トーテムとメタモルフォーゼ』・野生会議99企画つながるゼミナール④)

 多良間島にはチャーミングな習俗が残されていて、女性が男性に「ヤシガニを捕って」と頼むのは、「愛の告白」を意味していた。ここには、カニ男性と貝女性の合体が暗示されている。これは、ヤドカリ・トーテム段階の習俗で、トーテムがヤドカリになるというのは、子の出産の仕組みについての認識を受容したということだった。

 瀬底島の「アンチの上貝塚」は、初期のヤドカリ・トーテム段階を記す。それだけではなく、あの具志川島の岩立遺跡と並んで、四つの場が認識された上で、貝のデータが詳細にある、琉球弧でたった二つのうちのひとつだから、とても重要だった。

 ここで驚かされるのは、「境界のトライアングル」が二重化されていることだ。

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 カニ段階で生まれた姉妹と兄弟の距離は、ここで貝塚にも構造化される。この距離は、「兄妹始祖神話」で言うところの、「風上の男の息が、風下の女の息にかかって、子が出来るようになった(沖永良部島)」や「この兄(弟)と妹(姉)神は性的な結合はしなかったが、住み家がならんでいたので、ゆききして吹く風をなかだちにして、女の神は受胎した(中山世鑑)」の文言ともよく響きあっている。

 
 それなら、トーテム段階を終わらせかねないヤドカリを島人はどう乗り越えたのか。
 貝をみると、驚くのはここにカニがいることだ。貝の構成はトーテムを指示する。そのはずなのにカニもいる。詳細にみると、カニは子を、ヤドカリは大人を示している。つまり、トーテム人はカニ人として「この世」に現れ、成人化するときに、ヤドカリ人になる、ということだ。生誕祝いの際にカニ儀礼が残されてきたのは不思議だったかが、こういうことだったのだ。

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 膨大な数の貝を四つの場に則してみると、オウギガニ段階以降に顕著になった男性数の不足は解消されていない。ことによれば三年おきほどに、貝塚の場は改められ、そのたびに男性の出現を願うイモガイが置かれていく。その結果が、イモガイ集積となって残された。カニの終わりから続く男性の不足。沖縄島周辺に限っていえば、この男性数の不足がヤドカリを受容する背景にあったものかもしれない。子の生誕に男性は関わらないというのが、トーテム人の認識だ。しかし、男性が少なければ生命の訪れも少なくなる。それが、子の出産の仕組みを認識として受容する背景にあったのかもしれなかった。

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 ここから舞台は奄美に移る。これも驚くことに、現在分かっている年代測定を元にすると、奄美は沖縄島周辺よりも千年もはやくヤドカリ段階に入っている。ここでは、沖縄島周辺とはまた異なる困難があったはずだが、その読解に迫れる考古学資料は残念ながら不足している。
 
 奄美では、コモン・ヤドカリのあとにベニワモン・ヤドカリがトーテムになる。サンゴ礁のヤドカリだ。奄美では、ここで「胞衣」が思考されている。そしてそのとき沖縄では、オウギガニ段階で、オウギガニを通じて「胞衣」は思考された。両者はトーテムの歩みに位相差を持ったが、違う生き物から同じころに、「胞衣」を考えたのだ。
 
 そしてナキオカヤドカリという陸のヤドカリがトーテムになる。このころ、沖縄でもヤドカリ段階に入る。
 
 ナキオカヤドカリという陸のヤドカリになる意味がずっと分からなかったが、これは栽培を意味していた。といっても穀類農耕ではなく、トウグリ(ゴーヤ)とトウガン(シブリ)である。畑の農耕は、トーテム段階に始まっていたのだ。
 
 こんかいは、出身の方が参加していたので、ここから「小湊フワガネク遺跡」に接近した。よく知られているヤコウガイ製の貝匙が、ヤドカリ女性の腹部を示すこと、それは同時に「胞衣」であり、冬瓜も思考されていることをお伝えした。小湊は、ヤドカリ遺跡なのだ。

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 この辺りから歴史上の記述に重なってくる。トーテム編年からいえば、「日本書紀」に記された「海見」とは、ヤドカリ(アマム)のことであり、アマミキヨは、「アマムの子」としての位相を持つ神である。で、これが締めくくりのお話し。
 
 ひとつのトーテムといっても長い旅路を持つのだから、それを数時間で話すのはヘビーだが、参加者はもっと大変だろう。今回も参加し
てくださったみなさんに感謝です。
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(ご感想)
トーテムの時代が終わってしまった!
なんだか切りはなされてしまった不安感をおぼえました。
かえりたい(靴屋)。
 
いつもは18時のシンデレラでしたが、今日は18時を超えていられるとはりきってきたのですが、18:30で終わってしまいましたね。
断片的ではありますが、喜山世界が少しずつ分かりかけてきました。面白いです。
次回はまたシンデレラ状態に戻りますが、楽しみにしております(宗統一郎)。
 
貝塚の形状にヤドカリを見るのが個人的には難しいようです。
また、,microのものをmacroに見る際に、必ずしも近似しているとは思われない、或いは相当な程度に「何にでも似ている」とも取れるような形状に、「何々に見ている」という説明を与えられると、どうも果たしてそうだろうか?と多少とも懐疑的にならざるを得ません。「神は細部に宿る」と言うが、一度細かい処が気になり出すと、全体の話を訝しむのが人の性のようです。まあ次回まで考えをまとめておきましょう(青年)。
 
・父の生まれた奄美の人々が持つ歴史があるのを知りました。しかし、父にとっては知り得なかった歴史だと思います。果たして伝承すらあったのかもわかりません。
 ・今回のお話しは、海岸線の人々の歴史でしたが、それは私も聞きかじった奄美の文化や生活に「山」がないのと通じるものがありました。また、「海」もないのは、海を渡って来ただろう人々にとって「海」とは何なのだろうかというナゾになりました。
・全く知らない話でおどろきましたが、理解はむつかしかったです(古木健)。
 
島々に伝わるいくつもの神話、たくさんの“隣りのおばあさん”から聞き取ったような、口誦伝承、島人として育った経験や感覚。現在も行われつづけている祭祀や歌・・・。そこに大量の考古学調査報告書から得たデータ分析を加え、立ち上げられた壮大な仮説。人間が貝や植物など身近な自然物から出現、湧出してきたという”こころ”は貝塚の遺物や遺構から読み解くことができる。
その夢のごとく幸福な一連の“こころ”の物語がついに今回、人間の歴史(有史)と連続することになりました。
一本の野太い物語のベクトル、血脈を感じられて感動的です。聞く側は一つ一つの精細さに立ち止まってしまうことなく、この強いベクトルを感覚してゆくことが大事なのではないでしょうか(谷川ゆに)。