野生会議99 つながるゼミナール② 谷川ゆに・読書会「古層から読む幻想小説」 第2回
2019年6月2日
今日は、前回に引き続き、谷川健一『民俗学の愉楽』(現代書館)を、わたくし谷川ゆにがレポートしながら、みんなから自由にコメントをもらうという形で進めました。
参加者は、20代の若者三人と、私、宮国優子、喜山荘一、という野生古老メンバー。
毎度のことながら、いや、盛り上がりましたよ!
若者は、非常に感性が鋭く、また頭の良い子たちばかり。分析的な冷静さを持ちつつ、いい意味での主観もきちんとある。
「あの世」と「この世」の境界にある「なぎさ」。
そこに古来、「産屋」を建ててそこで出産する習俗があったこと。産屋は、人間が死から生へ移行してくるとき、生まれ変わってこの世に出現するときの「繭」のような存在であること。
また、「うぶすなの神」は、「産屋」に敷く「砂」が神格化されたものであること。
・・・つまり、産屋は繭であると同時に、女性の胎内のような存在なのだ。渚という境界がつくりだす時空を超えた空間性にしみじみ。
うぶすなの神を共有するということは、同じ産屋から生まれた者をいう。この場合、血縁の者であるとは限らない。また血を分けた子どもであっても、生まれた場所が違えば、うぶすなの神を共有することにはならない。(テキストp80)
母親の身体だけでなく、もう一つの「胎内」としての「産屋」を共にする者同士は、血がつながっていなくとも、いわば家族みたいなものである。
ああ、人間だけの世界で構築された、血縁や血族、家族、ひいては国家などとは全然違う、「うぶや」の「砂」の「かみさま」を共有する繋がり。
わたしは、そういう「この世ならぬ」ものが含み込まれた関係性、共同性の中にこそ、私自身が、伸び伸びと呼吸ができる場所を得られるような気がする。
渚や砂、木々や動物たちの側に主体をたて、そのことを中心にわたしたちがある、という古代人的感性。この本のあとに読もうとしている泉鏡花などの幻想小説には、そういう流れあう生命の表出に溢れているのだ。
毎回、私たちの話題はいつもそこに流れて行く。
野生メンバーは、水をえた魚みたいに活き活きする。
近代を経た私たちが、いかに人間同士、あるいは人間以外のものとのあいだに、豊かな関係性を再構築することができるのか。
大きな、大きな問い。しかし重苦しさがあるだけでなく、その扉の向こうは実に広々としている。もちろん、簡単には答えがでない。しかし、明るくていとおしい何かが、そこにはあるような感じがする。そんな議論を仲間たちとできるのは、この上なく楽しい。
今回は、参加者それぞれに短い感想を書いてもらった。以下、掲載。
「理性一辺倒の現代を、今一度、省みる必要があると思いますが、その際に、この‘島の魂’のような、何か人の原初に立ち還る先(古巣ですかな?)を探してみるというのも、大いに有益でありましょう」(小林智靖さん)
「人間を主体にするか、あちら側(自然・神・あの世etc.)にするかの話が興味深かったです。泉鏡花が動物と一緒になりたい欲を、近代秩序で抑えていたという解釈が好きです。彼の、あの世に魅かれる気持ちはわかります。共同体は、やさしいけれど怖い存在だと感じます。」(野々村純音さん)
「人間を主体として自然との相似をみるのか、自然を主体として人間との相似をみるのか、という点を意識したことがなく、目からウロコがおちた様なきもちでした。うぶすなについてのあたりで、何度も共同体という言葉がでましたが、どのような共同体としてどういう風に存在していくのかを考えていかないといけない時代なのかな、とちょっと思いました。」(匿名さん)
「なぎさは、あの世とこの世の境という話。波打ち際にはずっと座っていたくなる。あの感覚は、その境にいることの安堵感からくるのかもしれない」(喜山荘一さん)
「神とは、私には、見えないものの総体だなと思いました。身近で形でないもの。そういうものなんだろうな、と思う。わたしは宮古島の人だからかもなあ。今日はヒントがいっぱいです。」(宮国優子さん)
上から三人までは、二十代の若者たち。
いいこと言うわー。
われわれ、不良の大人たちはとっても嬉しいっす。